更新情報:記事内容を更新(2025.3.18)
はじめに
このページは、大阪府内にある各市町村の名称の由来について、紹介しているページとなります。
50音順に紹介していますが、市町村の数が多いことから複数の記事に分けているので、今回紹介している市町村は目次をご確認ください。
参考にしているものとしてはなるべく信憑性の高いものを選んでいますが、正確性に欠ける場合もあります。
また、ページを更新するタイミングによっては、情報が新しくなっていない場合もありますこと併せてご了承ください。
大阪府の由来についてはこちら
他の市町村についてはこちら
太子町の由来
1956年(昭和31年)9月30日に、「磯長村」と「山田村」が合併、及び町制を施行したことによって、太子町が成立しました。
今回合併前の村には「太子」の名称はないことから、新たに命名されたものとなりますが、その経緯は不明です。
しかし、由来については判明しており、「太子」とは聖徳太子に由来した名称となっています。
この地域には天皇や皇族の古墳が多数あり、そのことから辺り一帯は「王陵の谷」と呼ばれるそうです。
その中に聖徳太子を祀ったものがあり、これにちなんで「太子町」命名されたとのことでした。
- 読み方→「太子町(たいしちょう)」「磯長村(しながむら)」「山田村(やまだむら)」「聖徳太子(しょうとくたいし)」「王陵(おうりょう)」
高石市の由来
1966年(昭和41年)11月1日に、元々あった高石町が市制を施行したことによって、高石市が成立しました。
高石町の前身である高石村は、1889年(明治22年)の町村制施行時に成立していますが、以前より「高石」の地名はあったようです。
そんな「高石」という名称の由来については詳細についての情報を見つけることができませんでした。
分かっていることとしては、古くには「高脚」と表記されており、これが転じたものであるということです。
これについては高石市にある地区の名称の1つ「高師浜」が由来であるとされているようでした。
- 読み方→「高石市(たかいしし)」「高師浜(たかしのはま)」
高槻市の由来
1943年(昭和18年)1月1日に、元々あった高槻町が市制を施行したことによって、高槻市が成立しました。
古くには「高月」と表記されていたそうですが、ケヤキの木が古くには「槻」と呼ばれ、戦国時代にその槻の近くに本陣をたてたことに由来して「高槻」となったそうです。
元となる「高月」の由来については、諸説あるとのことでしたので、今回2つの説を紹介していこうと思います。
①天皇から征伐の褒美でもらった土地にあった旗印が、月をかたどっていたことから「高月」と呼んだとする説。
②天月弓杜という杜があり、別名「高月読社」と呼ばれていたことから、ここから一帯が「高月」となった説。
- 読み方→「高槻市(たかつきし)」「天月弓杜(あめのつきゆみのやしろ)」「高月読社(たかのつきよみのやしろ)」
田尻町の由来
1953年(昭和28年)5月3日に、元々あった田尻村が町制を施行したことによって、田尻町が成立しました。
前身である田尻村は、1889年(明治22年)の町村制施行時に合併により成立していますが、合併前の村には「田尻」の名称はありません。
そのことから、新たに自治体の名称として命名されたものであり、これは「田尻川」に由来したものです。
ちなみに田尻の名称の由来としては、まず「しり」というのが湿地を表す言葉となっています。
そこに接頭語である「た」をつけ、あわせて「田尻」と転じていったものであるとされるそうです。
- 読み方→「田尻町(たじりちょう)」「田尻川(たじりがわ)」
忠岡町の由来
1939年(昭和14年)10月1日に、元々あった忠岡村が町制を施行したことによって、忠岡町が成立しました。
「忠岡」という名称については「忠行の丘」が由来とされ、これが転じたものとなっています。
これは、平忠度という武将が、子である忠行と熊野を目指したという話からきているそうです。
泉州大津まできた際に追っ手に襲われ、平忠度を先に行かせた忠行は善戦したものの、亡くなってしまいました。
そこに憐れんだ村人たちが小高い丘に弔ったとされ、それが「忠行の丘」と呼ばれ、地名の由来となったとしています。
- 読み方→「忠岡町(ただおかちょう)」「平忠度(たいらのただのり)」
千早赤阪村の由来
1956年(昭和31年)9月30日に、「千早村」と「赤阪村」が合併したことによって、千早赤阪村が成立しました。
「千早赤阪」という名称の由来については、合併された村をみてわかる通り、2つの村の名称を合わせたものとなります。
それぞれ千早村には「千早城」が、赤阪村には「上赤坂城」と「下赤坂城」があることから、古くからある名称となるようです。
ちなみに千早城は「千剣破」などとも表記され、勢いが激しい風という意味に由来するとありました。
そして赤坂については、赤土に由来するものとされますが、「坂」の表記が変わった理由については不明となっています。
- 読み方→「千早赤阪村(ちはやあかさかむら)」
豊中市の由来
1936年(昭和11年)に10月15日、「豊中町」「麻田村」「桜井谷村」「熊野田村」が合併、及び市制を施行したことによって、豊中市が成立しました。
豊中町の前身である豊中村は、1889年(明治22年)の町村制施行時に成立しており、このときに「豊中」の名称はできたそうです。
この町村制に伴い、5つの村が合併したことで成立した豊中村は「豊島郡」に属していました。
そのことから「豊島郡の中央」に位置していたことに由来して、「豊中」と命名されたそうです。
ちなみに「豊島」の由来についても調べてみましたが、こちらは情報を見つけることができませんでした。
- 読み方→「豊中市(とよなかし)」「豊中村(とよなかむら)」「麻田村(あさだむら)」「桜井谷村(さくらいだにむら)」「熊野田村(くまのだむら)」「豊島郡(てしまぐん)」
豊能町の由来
1977年(昭和52年)4月1日に、東能勢村が町制を施行、及び改称したことによって、豊能町が成立しました。
町制を施行するにあたって、新しい町名の募集があり、その結果として「豊能町」となったようです。
理由としては、この場所が「豊能郡」に属しており、最も最適な名称であるとして、決定へと至りました。
そんな「豊能郡」の名称の由来ですが、豊島郡と能勢郡の区域から発足したことにちなんでいます。
名称を見てみると、それぞれの字をとったものであることが分かり、合わせて「豊能郡」となったようです。
- 読み方→「豊能町(とよのちょう)」「東能勢村(ひがしのせむら)」
富田林市の由来
1950年(昭和25年)4月1日に、元々あった富田林町が市制を施行したことによって、富田林市が成立しています。
1889年(明治22年)の町村制施行時に、富田林町の前身である富田林村が成立していますが、以前より名称自体はありました。
「富田林」という地名の由来については、諸説あるとのことでしたので、今回2つの説を紹介していこうと思います。
①階段状の地形のことである段丘が、「富田が芝」と呼ばれており、これが転じたとする説。
②湿地を意味している「とだ」という言葉から変化していき、「富田林」となったとされる説。
- 読み方→「富田林市(とんだばやしし)」
寝屋川市の由来
1951年(昭和26年)5月3日に、元々あった寝屋川町が市制を施行したことによって、寝屋川市が成立しました。
自治体の名称として「寝屋川」とついたのは、1889年(明治22年)の町村制施行時の寝屋川村のときであり、「寝屋川」という川が名称の由来となっているそうです。
この「寝屋」という名称の由来については諸説ありますので、今回2つの説を紹介していこうと思います。
①旅人などに宿を提供していたことからと「寝屋」と呼ばれ、これが地名へとなっていったとする説。
②集落の名称とされ、「ね」が川岸で「や」で湿地、つまり川沿いの湿地を表したものとしている説。
- 読み方→「寝屋川市(ねやがわし)」
能勢町の由来
1956年(昭和31年)に、「歌垣村」「田尻村」「西能勢村」が合併したことによって、能勢町が成立しています。
町名については今回新たに命名されたものとなりますが、その由来については情報を見つけることができませんでした。
現在能勢町は豊能郡に属していますが、豊能郡となる前は能勢郡という郡があったことから、そういった部分に由来しているのかもしれません。
「能勢」という名称については、一説によると「野瀬」と表記されていたものが転じたとされているようです。
これは「野の瀬」からきており、周囲が山などに囲まれた地形が多かったことに由来しています。
- 読み方→「能勢町(のせちょう)」「歌垣村(うたがきむら)」「田尻村(たじりむら)」「西能勢村(にしのせむら)」「豊能郡(とよのぐん)」
コメント