スポンサーリンク

宮崎県の市町村名の由来【50音順 小林市~西米良村】

都道府県別名称の由来まとめ

更新情報:タイトルを変更(2023.8.15)

はじめに

このページは宮崎県の市町村の名称の由来をまとめたページになります。

50音順に紹介していますが、市町村の数が多いため、複数の記事に分けています。(このページでは小林市~西米良村まで)

宮崎県の由来についてはこちら

宮崎県知識まとめ

参考にしているページとしてはなるべく信憑性の高いものを選んでいますが、正確性に欠ける場合もあること、ご了承ください。

小林市の由来

1950年(昭和25年)4月1日に、前身である小林町が市制を施行したことによって小林市が成立しました。

ここの地名は歴史的に何度か変わっているといわれており、古くには「夷守」という名称で呼ばれていたそうです。

これは夷狄と呼ばれる敵を討つための軍の役所があったことに由来した名称で、その後は「三山」や「三ノ山」に変化したとされています。

こちらの名称は三ツ山城が建てられ、この城を中心としてたことからつけられた地名となっているようです。

そして後に小林城を中心とした治めていたことに由来して、現在の小林の地名へとまた変化していきました。

  • 読み方→「夷守(ひなもり)」「夷狄(いてき)」「三ツ山城(みつやまじょう)」

西都市の由来

1958年(昭和33年)11月1日に、前身である西都町が市制を施行したことによって西都市が成立しました。

西都の名称の由来は、市のシンボルともなっている「西都原古墳群」から名称をとったものとされています。

前身である西都町は1955年の合併の際に誕生していますが、そのときに町の名前として「西都」と新しく命名されました。

西都原古墳群はその名のとおり複数の古墳があり、特に重要なものとして国の特別史跡に指定されているところです。

西都市の古墳群は日本の中でも歳大規模とされていて、位置したている場所は三宅、童子丸、右松の三つの地域となります。

  • 読み方→「西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)」「三宅(みやけ)」「童子丸(どうじまる)」「右松(みぎまつ)」

椎葉村の由来

1889年(明治22年)5月1日に、町村制施行に伴い「大河内村」「下福良村」「不土野村」「松尾村」が合併したことによって椎葉村が成立しました。

椎葉という地名は陣小屋と呼ばれる軍の兵士が屯駐する小屋が、椎の葉でできたことに由来したものとされています。

しかし、椎葉村が成立したときに村の名称として「椎葉」が何故採用されたのかについては情報が見つかりませんでした。

臆測とはなりますが、合併前の村についても元々合併が行われた結果上記の四つの村ができていて、椎葉山中の村が合併されたとのことなのでこの「椎葉山」が関連しているのかもしれません。

こちらについては椎葉村の詳細についての情報が新たに見つかり次第、また改めて追記をしていこうと思います。

  • 読み方→「大河内(おおかわうち)」「下福良村(しもふくらむら)」「不土野(ふどの)」「松尾(まつお)」「陣小屋(じんごや」

新富町の由来

1959年(昭和34年)に3月31日に、「新田村」と「富田村」が合併及び町制を施行したことによって新富町が成立しました。

新富という名称は合併前の村の名称をみてみると分かるとおり、それぞれの字を合わせた合成地名となっています。

合併前の村の由来について紹介をすると、新田は「丹石」と呼ばれる顔料に由来するという情報がありました。

丹石の産地であったことから「丹生田」で「にゅうた」などと呼ぶようになり、現在の表記へと転じていったとのことです。

しかし、富田の地名の由来については情報を見つけることができなかったので、また分かれば追記していきます。

  • 読み方→「新田(にゅうた)」「富田(とんだ)」「丹石(にいし)」

高千穂町の由来

1920年(大正9年)4月1日に、前身である高千穂村が町制を施行したことにによって高千穂町が成立しました。

高千穂の名称は神話に由来したものであるとされ、日本神話に登場するアマテラスオオカミの孫のニニギノミコトがこの地に降り立ったといわれています。

暗闇に包まれた場所であったこの大地に、ニニギノミコトが稲穂の籾を振り撒いて明るくしたという伝説があるようです。

そのことにちなんでこの地を高千穂と名付け治めたといわれていて、現在にまでその名称が引き継がれています。

しかし、高千穂町には降り立つような目立った山がないなどの理由からニニギノミコトが降り立ったのは違う場所ではないかともいわれているそうです。

高鍋町の由来

1901年(明治34年)2月7日に、前身である高鍋村が町制を施行したことにによって高鍋町が成立しました。

古くには財部と呼んでいたといわれており、これを由来として高鍋の名称へと変更されたとされるようです。

高鍋藩主であった秋月種信が財部を改築する際に名称の変更を長い届けたという経緯があって高鍋となりました。

どうやら九州南部にある島津領にも「財部」があり、混在してややこしいということから変更したそうです。

この字へとなったのは単なる当て字なのか不明ですが、読み方は「たからべ」が転じたことで「たかなべ」になったといわれています。

  • 読み方→「財部(たからべ)」「秋月種信(あきづきたねのぶ)」

高原町の由来

1934年(昭和9年)10月5日に、前身である高原村が町制を施行したことにによって高原町が成立しました。

高千穂町の由来を紹介した際にニニギノミコトが降り立ったのは違う場所ではないかといったことを記載しましたが、その他の場所とはこの地のことです。

正確にいうとこの地にまたがっている、高千穂峰と呼ばれる山に降り立ったのではないかとされるようです。

そ禹いったこともあり高原町も日本神話にゆかりがあるとされ、また、神々の住む場所のことを「高天原」といいます。

このことから高原という名称の由来については、この「高天原」に由来しているものといわれているようです。

  • 読み方→「高千穂峰(たかちほのみね)」「高天原(たかまがはら)」

都農町の由来

1920年(大正9年)8月1日に、前身である都農村が町制を施行したことにによって都農町が成立しました。

都農の名称については「都」が津や都、「農」がそのまま農業を表す言葉とも捉えられますが、由来については不明な部分が多いようです。

古くには「津野」といった表記もあったといわれていますが、どのように現在の表記で定着したのかもわかりませんでした。

そのため、都野の由来については不明な部分が多く情報が見つからない以上、推測で考えるのも難しいです。

そのため、こちらについてはきちんと情報がまた分かり次第、改めて都農の由来を追記をしていこうと思います。

西米良村の由来

1889年(明治22年)5月1日に、町村制が施行されたことに伴って西米良村が成立しました。

米良山が町村制施行時に東西に分かれたことによって西側を「西米良村」、東側を「東米良村」としたそうです。

ちなみに現在東側であった東米良村の場所は、西都市などに編入されたことによりなくなっているようです。

そして米良の地名の由来についてですが、日本神話に登場するイワナガヒメと呼ばれる女神が関連しているとされます。

イワナガヒメは自分で農業に励んだとされ、常に豊作であったことから「ヨネヨネヨシヨシ」と喜んだことから米良となったそうです。

コメント